先月の連休に、沖縄に行ってきました。
前に行ったのが19才の時ですから、実に22年ぶりの訪問です。
久方ぶりに眺めた沖縄の街は、やはり随分変わったなぁ、という印象でした。
どこにでも、ツタヤはあり、ユニクロはあり、コンビニはある。
日本全国の国道沿いが、沖縄も含めて同じ風景になっている。
前回、22年前に沖縄に来た時は、
「とんでもなく遠い南の島に来たもんだ」と思ったものでしたが、
今回は、そうは思わなかった。
(まあ、今回は波照間島などの離島に行けず、季節も夏ではなく秋だったので単純比較はできないのですが、、。)
時間的には東京から飛行機で2~3時間で着いてしまうけれど、
私は間違いなく膨大な海と山を超えて沖縄に来た。
東京と沖縄には絶対的な距離があります。
よって気候も全然違います。
従って、文化も違います。
だけど、車のラジオではFM東京の番組が流れ、なぜか多摩川の話題が語られている。
部屋のテレビでは、東京でよく見るバラエティ番組が流れている。
これは、とても当たり前のことです。
全く当たり前のことなんだけど、同時に非常に不自然なことでもある。
こんな遠い南の島と東京で、同じ言葉が使われ、同じ店に通い、同じ流行を追うというのは。
政治や経済といったパワーの強大さを随所に感じるわけです。
沖縄は本来、日本でも、アメリカでも、中国でもなく、
琉球王国なのですから。
首里城跡や今帰仁城跡の石垣と、ツタヤの青い看板がオーバーラップします。
人々は未知なる土地へ旅をして、文化は混じり合います。
それは自然なことで、否定のしようがありません。
しかし、政治や経済や技術に、
流されるままに、流されるままに、流されるままに、していると、
その場所の地形や気候、土や水や日の光などといった揺るぎない「真実」と、
国家という枠組などの「作り話」とのギャップが大きくなりすぎてしまう。
旅の欲望と場所という真実。
両者、がっぷり四つです。